私の実家は、中川堂といい、古くから東京神田で看板業を営ん
でおりました。昭和30年代、看板素材は塗料が当たり前だった
時代。高度成長の時代背景の中で、業界は絶対的な技術者不
足にみまわれていました。当時学生だった私は、この時代に何
が必要なのか考える毎日・・技術革新の必要にかられ、新素材
の開発に情熱を傾け始めました。昭和41年、晴海の東京モータ
ーショーでシート素材7色を発表。しかしながら当時、この素
材は業界から全く受け入れられませんでした。それでも、ひと
つのアイデアによる突破口から(次回以降で詳述しますが)、
カッティングシートは徐々に世の中に知られるようになりまし
た。更に時を経て、成田空港や新幹線、地下鉄などの大規模な

公共空間の照明サインに全面的に採用されたことが起爆剤とな
り、現在のようなサインやディスプレイへの使用が定着しはじ
めたのです。
さて、カッティングシートのような素材が必要だと感じた背景
・・まずは、子供の頃の話から始めましょう。昭和20年の東京
大空襲で実家は焼け、焼け野原で看板業務を再開したのは、父
が戦争から復員した昭和21年のことでした。東京は、今考える
と、想像もつかない別世界で、子供の私の身長で見てJRの神田
駅と浅草橋駅が同時に見えました。工場も車も殆どなく、焼け
野原には一面に草が茂り、空気も澄んでいたのをおぼえていま
す。食料難で実家の付近には、サツマイモやトウモロコシが植
えられていました。そんな中、父と母が自らの手で建てたバラ
ック小屋が最初の住まい。家族みんなで狭い小屋ですし詰めに
なって寝ていると壁板の節穴からきれいな星が見えました。
そんな時代、看板屋は、塗料は自前でつくらなければなりませ
んでした。父親が顔料の塊を刃物で板の上に削り、それを瓶の
腹でつぶして細かい粒にします。更に油と混ぜてヘラで溶き、
布で漉して、初めて塗料ができるのです。この塗料は、そのま
までは乾かないので、使うときに乾燥剤を加える必要がありま
した。それを筆や刷毛で塗るのですが、現場で文字一つを書く
にも、一人前になるには大変な修業の月日がかかります。実家
には何人もの職人さんが住み込んで、母の作った夕食をとった
後、古新聞を広げ、裸電球の下で文字の練習をしていたのは忘
れがたい光景です。
次回は、少しずつ復興していく日本で、看板業がどう変わって
いったか、私自身の体験を交えながらお話ししたいと思います。
代表取締役 中川幸也